介護業界で働く前に読むブログ

介護に正解はない、あるのは関係者各位の合意のみ

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こんにちは、介護福祉士のまちかです。

 

ここでは私のプロフィールをご紹介させてもらいます!

介護をする前は何をしていたか。なんで介護士をやるようになったのか。それからブログをしている目的。

そんなこと書いてます。もし、ご興味があれば~。

 

 

介護職になる前の仕事

わたくし、以前は介護とは何の縁もゆかりもない、広告関係の仕事をしておりました。

まぁ広告関係といえば響きはいいですが、決して華やかなデザイナーとかプランナーとか、広告代理店とかではないです。下請けも下請け、吹けば飛ぶようなチョー零細企業で、DTPやグラフィックデザインに毛の生えたような仕事をしておりました。

 

一日10時間ぐらいでしょうか。パソコンのモニターを見ながら、パンフレットやWEB広告を作ったりしておりました。

メーカーやカメラマンから送られてくる試作品や写真を、別の素材と合成したり、はたまた発売前の製品を先にCGで作って販促をしたりと。

打ち合わせなどで、たまには取引先の会社に出向くことはありましたが、ほとんどの場合、電話とメールでことが済みます。

そのため一日中、冷暖房の効いた部屋でイスに座ってヌクヌクとデスクワークをして過ごしておりました。

 

そんな折です。

リーマンショックだか、サブプライムローンの破綻だか、海外の訳の分からない理由で突如と、世は不景気の嵐になってしまいました。

一般的に企業ってやつは、不景気になると広告を出さなくなります。

そのため自分のいた広告業界は、産業ごとマルっとダメージを受けてしまい、吹けば吹けば飛ぶような我が社は、あっという間に倒産の危機と、これあいなったのです。

 

当時、会社で一番若かった私は上司から真っ先に声をかけられました。

「まだ若いんだから、他へ行ってもやり直しきくし。自己都合だと失業保険すぐ下りないけど、会社都合ならすぐ出るからさ

とか何とか。

その時の上司の口車に乗って、見事、会社都合で退職するハメになったのでした。

 

忘れもしません。

あれは生まれて初めてハローワークに行った時のことです。

年末も押し迫った日、12月24日のクリスマス・イブです。同じような人が大勢並んでいて、そのこはまるでバーゲンセールの会場かと思ったほどでした。

手続きするのにも一苦労で、その時はまだことの重大さを理解しておりませんでした。

この人たちも皆仕事がなくて、クリスマスなのに大変な目にあっているんだなぁと、他人事かのようにその光景を眺めていました。

同業他社ですぐ、同じような仕事が見つかるだろうと甘く考えていたのです。

 

しかし、不況の嵐は続きます。

TVでは、経営が悪化し大企業でも倒産するといったニュースが連日流れていました。

その年の流行語には、「派遣切り」がノミネートされ、日比谷公園には年越しをするための「派遣村」ができていた時代です。

私自身は派遣社員ではなかったですが、同じような境遇の人がこんなにもいるものかと驚いて、強烈に感情移入してニュースを観ていました。

ゆくゆくは、派遣村に行こうかと真剣に考えていたほどです。

 

一方、自分が就活していた広告業界は、面接どころではありません。採用の募集すらほとんどなく、さらに前いた会社もリストラでは済まずに倒産していたと後々に知るのでした。

 

介護職になった切っ掛け

その後も再就職はうまくいかず、かといって派遣村に行く勇気も出ず。季節は夏になっていました。

お盆にはまだ早かったですが、それまで仕事が忙く、ろくに帰省もしていなかったのでしばらく実家へ帰りました。

 

私の実家は東北のド田舎にあり、周囲は畑と田んぼしかありません。

そのためサラリーマンといった仕事は存在せず、あるのは農協や村役場、あとは学校、病院、インフラ系の仕事ばかり。田舎に帰って再就職の選択肢はありませんでした。

実際、地元に残っている同級生の就職先も、郵便局や水道局、準公務員といった働き口です。もっと言えば両親や親戚は、消防士、警察官、学校教諭ときてます。

やはりその影響を受けたせいか、私の兄妹たちは皆、学校を出るとすぐに看護師やリハビリの先生などを目指していました。

むしろ私だけが、都会に出て、広告だかデザインだか、家族からすれば訳の分からない仕事をしている、といった状態だったのです。

 

実家に帰って最初のうちは、ゴロゴロしていても自動でご飯が出てくるし、ニート生活を満喫していました。ですが流石に数週間も続くと、気まずい事この上ない。

たまに祖母から畑仕事の手伝いを頼まれ、草取りや水やりはしていましたが、基本は昼過ぎに起きて、ドラマの再放送を観るのが主な仕事でした。

はい、ゴミ人間でした。

 

面と向かって家族から働けとは言われませんでしたが、さすがに毎日、彼ら彼女らが仕事に出かけるのを見ているとツラいものがあります。当時、80歳を超す祖母ですら、畑やゲートボールへと日々、出かけるのですから。

 

お盆を過ぎる頃には実家を後にし、再びハローワークへ通うことにしました。

公務員やインフラ系の仕事は、採用条件に年齢や学歴があり、程度の低い私では門前払いです。

看護師やリハビリの先生もチラッと頭をかすめましたが、今から数年かけて、大学や専門学校へ通う資金も度胸もありません。

 

何か手に職を付けよう。不況でも生き抜けるような職を。

 

そこで思いついたのが介護でした。

当時、東京都は今よりも本気で、介護職員を増やそうと考えておりました。剛腕で有名だった石原都知事の主導のもと、助成金を増やしたり、資格を取るための学費代を出してくたり、割とまともな政策が行われていたんです。

失業手当をもらうため、ハローワークへは定期的に通っていたので、そういった情報は何となく入ってきていました。

 

ただ、介護のイメージといえば、きつい、汚い、給料が低い。何かとそんなマイナスイメージの多い仕事でしたが(今もまったく変わっていない、、)日常的に祖父母と暮らし、共に育ったこともあり、自分としてはあまり抵抗はありませんでした。

それよりも、未経験者でもいいから常に人を必要としている仕事。誰もやりたがらない仕事。慢性的に人手不足な仕事。

今からして思えば、介護のそういった部分に惹かれ、間違って足を踏み入れたのかもしれません。

 

とにかく、ワラにもすがるような想いで、業界最大手「ニチイ学館」が主催していたスクールへと足を運び、一ヶ月ほど通いつめ、資格を取ったのでした。

 

介護業界へ橋をかける気持ちで

とまぁ、なんやかんやあって、いまでは首都圏近郊の有料老人ホームで働いておるわけですが。

その間にもホームヘルパー2級(現在の初任者研修)から、介護福祉士へなったり、さらにはケアマネジャーも取ってと、まさに介護の王道を歩んできましたが、その辺りのお話はいずれまたの機会にでも。

 

早いものでこの業界に入って10年以上も経ちますが、一番驚いたことが、噂にも聞いていた離職率の高さです。

なんと自分より後に入ってきて、先に辞めていく人の多いことか。多いことか。多いことか。

 

 

これではいかーんと思い立ち、会社の上司に掛け合い、周囲を巻き込んで今の活動を行っているのです。

それと合わせてブログでも、未経験者が介護業界を目指そうとした際に、いくらかでもカルチャーショックがやわらげることができないかと、情報発信している次第です。 

 

そんな訳で、何かと暗く、取っ付きにくい介護業界の話を、ウソ情報なども交えつつ(オイッ)、少しでも面白おかしく分かりやすく、お伝えできるよう更新しています。

 

以上、ご拝読ありがとうございました。